ロンドン大学での会議「ナクバ60周年」

2009年2月21日(土)〜22日(日)にロンドン大学のSOAS(The School of Oriental and African Studies)で開かれた週末会議に参加してきました。
会議の報告内容など、個人的に下記のとおりまとめてみましたので、ご参照ください。

ロンドンで遭遇したそのほかパレスチナ関係のイベントや出来事についてはこちら情報のアップを始めました

前日に回ってきた「混雑が予想されますので、9時には会場に来てください」との連絡から予想がつくとおり、
すごい人出で、事前登録者以外に席はない旨、告知されていましたが、それでも
床や階段に座るなどして、合計400人近くは参加されていたのではと思います。

会場はSOAS校舎の横にあるのBrunei Gallarly。企画の主催者は、SOASのPlaestine Societyという組織で、
「パレスチナ系、非パレスチナ系の学生や、パレスチナ問題に関心のある教員などで構成された組織」と配布物で解説されていました。

  

      ↑会議場の様子(写真)→

プログラムは、初日が講演だけで4セッション、13人が報告(+開会あいさつと基調講演が1人ずつ)、
二日目は報告が8人、2セッションで、ディスカッションに1セッションという構成でした。
かなりの長丁場にもかかわらず、常に一定数の聴衆がおり、大きく減ることはありませんでした。

開始は9時半の予定でしたが、結局ずれこんで(アラブ時間?)10時前に始まりました。
オープニング・スピーチをしたのは、1948年のナクバの際に破壊されたパレスチナの村々について
大巻本の写真資料集『All That Remains』(1992年)を著した ワリード・ハーリディーWalid Khalidi教授(エルサレム出身)で、
彼の紹介をラーマッラー出身の弁護士ラジャー・シャハーデRaja Shehadehが行う、という豪華なものでした。

ラジャーは人権団体al-Haqの創始者で、イスラエルの占領を国際法の観点から分析しています。
祖父、父、と三世代続けての法律家家族ですが、父のアズィーズは20年以上前に自宅前で暗殺されました。
ラジャー自身は文筆家としても有名で、彼の書いた 『Palestinian Walks: Forays into a Vanishing Landscape 』(2007)
2008年のオーウェル賞を受賞しています。西岸地区のラーマッラー市内出身。

ラジャーはこの会議の目的を「ナクバの理解と平和の促進のため」と呼び、鋭い言葉の使用を避けましたが、
ワリード(コロンビア大学のワリード・ハーリディーと紛らわしいので、ここではfirst nameを使用)は最近のガザでの攻撃を
「ガザ・ゲットーへの大虐殺、またはポグロム recent carnage and poglpm of Gaza ghetto」だと激しく非難していました。

 ワリード・ハーリディーの講演
 Walid Khalidi (Co-founder of the Institute of Palestine Studies),
  "From 1947 to 1897: From Partition to Basel"

             オープニング講演をするワリード・ハーリディー →

ワリードの話は、1947年のパレスチナ分割決議を「ナクバの誕生」とし、
1897年のバーゼル会議(第1回シオニスト会議)を「ナクバの生物学的親」と位置づけた上で、
シオニズムの始まり・拡充を軸にデータを示し、ナクバがおきた経緯を振りかえる内容でした。

タイトルの年代が逆行しているので、どう説明するのかな、と思っていたのですが
「パレスチナ側が分割を拒否したのは、そもそも内容が受け入れ難いものだったからだ、
として人口比率や土地の所有について触れた後は、比較的時系列に沿った説明でした。
「シオニズムは疑いなく、ナショナリズムの運動だ」としながら、その性格は
「アジア・アフリカでみられたような民族自決でもなく、占領へのインティファーダでもなく、
マイノリティによるアイデンティティ回復(バスクなど)の運動でもない。
いってみれば、エスノナショナルな衝動に基づくものだ」と位置づけています。

「バルフォア宣言(1917年)は分水嶺であり、これを境にシオニズムは幻想から現実へと変わった」と述べられました。
「キブツの建設は、占領の戦略的拠点であり、イギリスのお墨付きを得てシオニズムによるレコンキスタが始まった。
つまり本拠はロンドンであった」との指摘がなされました。
このほかにもゴードン・ブラウン首相の発言など引かれ、開催国であるイギリス政府の 姿勢や歴史に対して、
彼だけでなく、他の講演者からもしばしば鋭い批判が聞かれました。

「シオニストは常に帝国主義のスポンサーに頼る。はじめはイギリスで、その後からアメリカへ乗り換えた」とした上で、
在米ユダヤ人が建国への支持を表明したビルトモア会議(1942年)の重要性に言及し、
これが「決定打master strokeだった」としています。
この後、ユダヤの過激派組織は英国勢力の追い出しを測り、後に首相となるベギンやシャミールらの率いる
軍事攻撃が続いた、と話を展開しました。

講演の最後は少しシンボリックな発言となり「パレスチナの農民は、古代ヘブライ人の真の子孫だ!」としめくくると、満場の拍手の中、演台を降りられました。

 カルマ・ナーブルスィーの講演
Karma Nabulsi (University of Oxford),
"Resistence History from Below and the Collective Retrieval of Memory: Towards a New Historiography"

             講演をするカルマ(右から二番目)→

カルマのことを私はこの会議まで知らなかったのですが、PLOの国連代表を13年間務め、
現在は英紙ガーディアンなどで活発に発言されています。
ガザには先週末、3日ほど入られ、あちらの大学組織や国連、NGOなどの人々と会って来られたそうです。
国際関係論がご専門で、講演内容は非常に明晰なものでした。

彼女の講演は、パレスチナの歴史の書き手にみられる変化と持続に焦点を当てたものでした。
その変化はおもに、「PLOの時代」と「ポスト・オスロの時代」に分けて考えることができ、
前者において、書き手は闘争に直接かかわる人々であったのに対して、
後者では、分析の専門家が中心的な担い手に変わったと、まず概略を指摘されました。

「PLOの時代」の書き手は、歴史へ具体的に関与する、内部者であり、創造者でした。
そこでは闘争のクロニクル(日誌)がつづられてきました。アラブ諸国への反発はあからさまに描かれ、
殉教者など、革命に参加した人々を祀る機能も果たしていました。
また各派閥から、失敗に対して何が悪かったのか、将来への教訓に結びつけるための
自己批判が行われていました。

これに対して「ポスト・オスロの時代」では、こうした側面は失われます。
叙述の対象となったのは、パレスチナの「国家建設State building」であり、
「平和構築 Peace Building」であり、交渉と妥協の繰り返しである「パレスチナの歴史」です。
そこに、革命を支えてきたパレスチナの人々の姿はみあたりませんでした。

新しい歴史の叙述に向けて、今必要とされているのは、「下からの歴史History from Below」です。
離散先で政治的活動を支えてきた文化的な要素、互いに結びつきあった生活を描くことが求められています。
これらは長らく「隠された歴史」でしたが、これを「公的な歴史」に変えていく必要があります。
また帝国主義に対する他の闘争と比較するアプローチも求められています。
世代を越えてひきつがれる政治的思想こそが、闘争の歴史を織り成してきたのです。(後半部分、内容を確認中)

 イラン・パペの講演
Ilan Pappe (University of Exeter),
"The Struggle Over Memory: the Future Agenda"

                         講演をするイラン・パペ →

  パペはいわずとしれたイスラエルの「新しい歴史家」の一人で、長い間ハイファ大学で教鞭をとっていましたが、
シオニズムを批判するその活発な発言のため、学会から反発を受けてエクセター大学へ移りました。
2国家ではなく、1国家推進論者で、代表著作に『パレスチナ近代史 The Modern History of Palestine: One Land Two Peoples』(2003年)、
『パレスチナの民族浄化 The Ethnic Cleansing of Palestine 』(2006年)などがあります。
本人の公式サイトはこちら。(ちょっと重いです)

パペの話の前半は、1967年戦争の際にイスラエル政府が下した重要な意思決定の話についてであり、
後半は記憶をめぐる闘争についての話でした。ここではとり急ぎ、前半についてのまとめを書きます。

1967年6月18〜19日にかけて、イスラエルでは重点的かつ真剣な議論が行われました。
それは将来的な西岸地区とガザ地区のあり方についての議論です。
当時の内閣は、左派のマパムから右派のへルートまで広い派閥を巻き込む体制で、
なおかつ1948年の民族浄化に直接関与した人々が参加するものでした。

そこで話し合われたことは主に三点、1948年と同様の民族浄化の可能性と、
土地の交渉に将来応じるか否かという点、そして奪った土地をどのように維持するかという点についてでした。
先の二点については否定的な決定が下されました。
またパレスチナ人には市民権を与えず、土地を維持する方法が考案されました。
ヘブライ語の「トシャヴィーム(residents)」という言葉は、この過程で創造されました。
また撤退の対話は続けるが、撤退はしない旨、決定がなされたのです。

1948年戦争の達成を維持するために、「新しい地政学的空間」が再創造されました。
それが「西岸地区とガザ地区から成るパレスチナ」です。
このパレスチナは、1967年に作り出された「歴史的物語」であり、
イスラエルが関心を持たない縮小された地域から構成される地域を意味していました。

イスラエルはさらに、歴史家をリクルートし、和平交渉の歴史について書かせ始めました。
しかしそれは歴史の中の、さして重要ではない、末端のできごとに過ぎません。
より重要なのは、入植地の建設や、集団懲罰、人々の追放や占領ということなのに、
そうしたことに政治エリートは関心を持たず、アメリカのメディアやイギリス議会では全く触れられません。

二国家解決案を振り返る、などと言われることがありますが、二国家など存在したことはなく、
今後も存在することなどないでしょう。
1967年の戦争では、見せかけの平和の陰で、パレスチナの歴史の全側面を支配する
一つのイスラエル国家が完成されたのです。
こうしたイスラエルの政治力学が定義するパレスチナ象に、われわれは抵抗しなければなりません。

*以後、「記憶の闘争」の話(省略)

 ランダ・ファラハの講演
Randa Farah (University of Western Ontario),
"Palestinian Refugees and their Oral Histories: History's Silence, Memory's Burden"

                         演台上のランダ・ファラハ →

  ランダ・ファラハは人類学者で、ヨルダンのバカア難民キャンプなどで聞き取り調査を行っています。
(Journalのリンクを検索中)
アルジェリアのサフラーウィー難民キャンプでも調査を行っているようですが、こちらはまだ私はチェックしていません。

inserted by FC2 system