「ザイマ・ビッディク」(As you like)

 アラブ人のお宅にお邪魔すると、必ず、もう99%の確率で お茶かコーヒーをすすめられる。また個人の家ばかりでなく、 小ぶりな商店や、省庁のオフィスなどに行っても同じである。 (例外はラマダーンという断食月の間。 その場合「断食中だから入れてあげられないの」と大変申し訳なさそうに 断りが入ることが多い。また外国人の私にだけは入れてくれることもある。 彼らは飲まないので、大変こころ苦しい。)


たえず「お茶(紅茶)」「コーヒー(トルコ・コーヒー)」の選択肢があるのだが、 暑い日など、これに「水」や「ペプシ」(ジュースの代名詞)が加わることもある。 「どっちが(どれが)いい?」と聞かれるたびに、優柔不断な私は 迷うのだが、とりあえず喉が渇いたときなどは「お茶」を頼むことにしている。


コーヒーは、以前調査のときに、一日のうちに何軒も家を訪ねる機会があり、 それぞれの家であまりに何杯もごちそうになりすぎて、胃が悪くなった経験が あるからだ。しかし紅茶も油断ならない。家によってカップの大きさが異なり、 たいてい125mlくらいの小さなグラスなのに、ときに350mlも入りそうな 大カップになみなみ注がれてくることがある。彼らの風習ではいただいたお茶や コーヒーを飲み干さないことには、途中で席を外すのは失礼なこととされる。 早めに立ち去りたいときなど、お茶が冷えるのを待って「ビールの一気飲み」 の要領で飲み干さなければならない。


そんなこんなを考えながら、また入れる手間を考えてどうしようか迷っていると 「どっちがいいの?」と再び聞かれる。一人暮らしで長年食器を洗っている 身としては、一家の主婦の手間が省けたほうがいい。 「うーん、あなたは何を飲むの?」と日本人らしく「同じもの」を頼もうとして 聞くと、「あなたが何を飲みたいの?」と繰り返し聞かれる。 「ザイマ・ビッディク(As you like)、好きなものを頼めばいいのよ」 とじっとこちらを見つめられると根負けし、お茶かコーヒーかどちらかを頼んでしまう。 その後ではじめて、何を頼むかとっくの昔に決めていたらしい、親戚連中が お茶だのコーヒーだのをてんでに「お茶入れ係」に頼む。 自分以外、全員コーヒーだったときなど、申し訳なかった、手間が増えた、 と後悔するのだが、そこで「あ、じゃあ私もコーヒーでいいです」 なんて言ってみたところで既に遅し。「お茶がいいんでしょ?いいのよ、 ムシュムシュケル(No problem)」と言って、彼女はさっさと台所に 去っていってしまう。


手間がかかろうがかかるまいが、他人に合わせることなく、自分の決定を 尊重する、そういうところが彼らにはある気がする。そういえば、 お昼をごちそうになるときでも、お母さんは子どもに向かって「ご飯食べなさい!」 と呼びかけるものの、「ビッディーシ!(いらない)」と遠くの部屋から 子どもが叫ぶと、「ハラス、ザイマビッディク(いいわ、好きにしなさい)」 とけっこうあっさり引き下がる。その後で「お母さん、何か食べるものある?」 と聞いても、「ラ、マーフィー(ないわよ、そんなもの)」とつれなく否定され、 子どもは自分で台所をあさらざるをえなくなる。 「だから言ったでしょ?食べなさいって」などとぶつぶつ言いながらも 再び台所に戻り、おさめたばかりの食事を暖めなおす日本とは大違いである。


おかげで野菜が嫌いな子どもは野菜を無理やり「食べさせられ」ることなく 大きくなるし、偏食・食べず嫌いは非常に多い気がする。 一長一短なのだが、いつも「右にならえ、左にならえ」ばかりの日本人に 比べると、やはり自己決定の決断力には富むように育てられるのだろう。


ちなみにこの言葉「ザイマ・ビッディク」は、肯定的に選択肢を示す場合 ばかりでなく、むしろ「いいよもう、勝手にすれば」といったなげやりな あきらめの台詞として使われることも多い。よくあるナンパの一種で タクシーの運転手に携帯電話の番号を聞かれ、教えるのを頑固に拒否すると 最後には、「ザイマ・ビッディク」という返事がかえってくる。 非常に残念そうで、むすっとした運転手を残して、こちらは意気揚々と タクシーを降りて去ることになるのである。


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