町の絵描き

パレスチナ議長府のある事実上の中心都市ラマッラで、最も人の往来がにぎやかな通りはといえば、マナーラ・サークルから始まるメイン通りだろう。マナーラ・サークルはロンドンのトラファルガー広場のようなライオン像と背の高いオブジェで知られ、ラマッラからの報道があるときはたいていここが映される。イスラエル軍との衝突、デモなどもここを舞台に起こることが多い。6本の道がのびるサークル周辺では、車がいつも渋滞を起こしている。


そのサークルを囲む歩道に、長らく店を出していた絵描きがいる。ワリード・アイユーブ。アラブ諸国の政治家から人気歌手まで幅広く描き、写実的なその絵はなかなか見事だ。分厚いベージュの画用紙のような紙にパステルで描くのだが、黒いベースラインによる迫力を損ねない程度に、うっすらと色づけもしてある。その彼の代表作は、やはりなんといってもアラファト議長の肖像画だろう。だいぶ以前に描いたのか、ふちがもうぼろぼろになってきている。やや右斜めをむいたその顔は、穏やかながらも指導者らしい緊張感をたたえ、瞳は何かを見据えたように強い光を宿している。



この絵のおかげで少し有名なのか、アラファトが亡くなった日の衛星テレビ「アル=ジャジーラ」の中継でも、彼は登場していた。いつも露店を開いているその場所で、議長の肖像画を背景に映っている彼を見て、私は思わず「あれっ?」という声をあげそうになった。


その後、同じ冬の12月、ラマッラに帰ってきた私は同じ場所に行ってみたが、彼の姿は見当たらない。標高1000メートル近く、昼間でも冷え込むラマッラでは、露店を出すには厳しい季節になってしまったのだろう。なんとなく寂しいような気持ちで私はその場を離れた。


クリスマスも近づく21日、しかし私は思いがけない場所で彼と再会することになる。2004年の夏に日本政府がUNDPを通じて550万ドルをつぎ込み建てたラマッラ文化センター(Ramallah Cultural Palace)、そこで開かれたバッハ・コンサートの待合ホールで、なんと彼はアラファト議長ばかりを描いた個展を開いていたのだ。例の代表作を含め、20点以上をに並べ、あるいは壁にかけて売っている。コンサートの客は大半が裕福なパレスチナ人と、国連勤務などの外国人なので、購買層としてはなかなかいいターゲットといえるだろう。今日は画家らしくベレー帽をかぶった彼は、足を止める客に対していちいち丁寧に応対していた。


夏に通りがかって写真を撮らせてもらっただけの私など、覚えてはいまい、と思いつつ声をかけてみた。「アル=ジャジーラに映ってたね」と言うと、彼はうれしそうに胸を張って見せた。「アラファトのことが好きなの?」と聞くと、ああ、と急に真面目な顔になった。この夏にラマッラに来たときは、アラファトに対する不満、批判をずいぶん聞いたが、彼が亡くなったこの冬からはそうした否定的な声はほとんど耳にしない。「アラファトのような指導者は、もう二度と現れない」という残念そうなため息ばかりをいろんな場所で聞かされた。そのどちらも本音なのだろう。パレスチナにおけるアラファトの存在感の大きさが感じられた。



商売の邪魔だなと思いつつ、彼とその友人と雑談を交わしていると、コンサート会場の扉が開いた。自由席なので、急いで席取りに行かなければ。「あなたは聞きに行かないの?」とためしに声をかけてみたが、彼は少し顔をしかめてかぶりをふるだけだった。ひとりたった15シェケル(300円)程度のチケットだが、インティファーダ後、経済状態の悪化するパレスチナでは平均月収が1000〜1500シェケル(2〜3万円)と落ち込んでいる。日本の感覚で言えばチケットは3千円もする換算になるのだろう。なんとなく悪い気持ちになりながら、私は会場の中へと急いだ。


コンサートが終わって出てくると、彼はまだロビーでギャラリーを続けていた。関心を持って足を止めた客に、熱心に応対している。絵が売れた形跡はまだない。ひとつでも多く、売れるといいな、と願いながら、人であふれかえるロビーを横切りその場を後にした。


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