壊れた眼鏡

「725シェケル」 電卓にはじき出された数字に、財布に伸ばしかけていた手は一瞬止まってしまった。 1ドル=4.25シェケル=105円くらいだから、だいたい1万8千円。 カウンター越しに見上げると、白いキッパをかぶったおじさんはにこにこと満足そうに、 次の来客を忙しそうに接待していた。ひと仕事やり終えた、という風に。 この眼鏡、買った値段もそもそもそんなにしなかった気がする・・


これが旧市街の土産物屋なら、険悪なけんかになろうとも妥協はしない私だが、 今度ばかりはここを蹴って出たとしても、次に同じくらい親切に探してくれる店が 見つかるとも限らない。 あれだけ頑張って、レンズに合うフレームを探してくれたのだし、 眼鏡は、こればかりは至急にどうしても必要な物だし。 おとなしく、言い値の通りに払うことにした。


すっかり空になってしまった財布を鞄にしまい、「学生だからお金がないの」と 頑張るべきだったかな、とか、でもいちおう「イタリア製」って書いてあるし、 とか納得できる言い訳を必死に考えながら、私は店を後にした。 やっぱり西エルサレムのお店は高い。モデルが古くても、少々レンズを削っても 自治区内のお店にしておけばよかったかなあ。


これは2004年9月1日の話、2週間泊り込みで入っていた調査地の村から エルサレムへ、休息のために出てきたときのことである。 泊めてもらっていたパレスチナ人のお宅で、よちよち歩きの3歳の子どもに眼鏡を踏まれ、 これまで一度も壊れたことのなかった眼鏡のフレームが見事に折れてしまった。 さいわいレンズ自体はプラスチックだったので無事だったのだが、 私は眼鏡無しでは読書もできない極度の近視。かなり打撃を受けてしまった。


家の主は非常に恐縮して、私を何度も町の眼鏡屋さんに連れて行ってくれた のだが、日本製のレンズに合うフレームがなかなか見つからなかった上、 翌日からは、イスラエル領内の政治囚との連帯のため、店自体が閉店ストライキに 入ってしまった。商店街も市場のいっせいにガレージを下ろし、終日休業してしまう。 これはパレスチナ自治区で80年代の最初のインティファーダ以来 続けられている伝統的な非暴力抵抗運動の手段である。


>>この夏は、イスラエル領内の刑務所でのパレスチナ政治囚への待遇改善を要求して、 囚人たちによるハンガーストライキがいっせいに行われた。 自治区の中でも彼らへの連帯運動として、囚人の家族らがともにハンストに入り、 また上述のような一斉閉店ストライキが各地で繰り返し行われた。 ラマッラでは、政治囚の中のシンボル的存在であるマルワーン・バルグーティーを オレンジ色の旗にした行進が見られ、またエルサレム郊外のアッラームでは イスラエル・アラブの政治家アズミ・ビシャーラらを中心とした座り込みが続けられた。 ストライキは9月2日に囚人の代表から終了宣言が出されたが、 その直前に、ナブルスではハンストを行っていた囚人の母がひとり亡くなられた。<<


そういうわけで眼鏡は修理できず、コンタクトレンズとスペアの読書用眼鏡で 乗り切っていたのだが、村からエルサレムに出てくるとき、その読書用眼鏡まで 村に忘れてきてしまった。気づいて電話したときは既に遅し。 パレスチナ自治区内に住む彼らには、エルサレムへ眼鏡を届けてもらうことは できない。(イスラエル政府の特別な許可がない限り、出て来れないので) 仕方なく、壊れた眼鏡を修理することにしたのだった。


どうせなら店数が多くて確かな方を、と西エルサレム(ユダヤ側)に来たのだが、 日本製のレンズはどうも形がこちらの基準から外れるらしく、 最初の数軒ではにべもなく断られてしまった。それでたどりついたのがこの店で、 親切なユダヤ教徒のおじさんが、フレームケースを5箱も6箱も引っ張り出してきて 合う形を探し出してくれた。 「どれもまったく形に合わないんだよなあ(Completely out of shape!)」 なんて言いながら。


その親切心に感謝しながら、私は複雑な思いにとらわれていた。 ”パレスチナ自治区で壊された眼鏡を、西エルサレムのキッパの店員に直してもらう” こんなことは第3国の住民にしかできないことだから。 パレスチナ・アラブはエルサレムへの出入りに特別の許可が要り、 イスラエル・ユダヤは自治区へ入るのを法律で禁じられている。 相互に行き来をすることができない人たちの間を、自分だけが特権階級のように 自由に往復することができる。それはなにも物理的な移動の面に限られず、 または物理的な接触の断絶が、精神的な相互理解をも妨げているように 私には思えてならなかったからだ。


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